雷狼竜の、予感        ラニャーニャ村のカク 1  雷を操り、狼のように素早い動きとその膂力を生かした爪攻撃を得意とする牙竜種モンスター、雷狼竜ジンオウガ。  元々は、渓流から離れた山奥にある場所、霊峰を住処としていたが、ある日、渓流付近でも姿が確認されるようになった。  渓流に元いたモンスター達を追い出し、縄張りを作ったジンオウガだったが、それもそのはず、霊峰に現れた古龍であるアマツマガツチに本来の縄張りを追い出され、山を下って渓流へとやってきたのだ。  しかし、危険なモンスターであるジンオウガがユクモ村周辺の渓流に姿を表したせいで、ユクモ村には少なからず被害が出たことも事実だ。よって、ユクモ村の住民の中には、ジンオウガに恨みを持つ者も少なくない。  もっとも、ジンオウガを熱狂的に愛する者がいないわけでもないのだが……  ユクモ村にて、雑貨屋の店員として働いている「彼女」も、そんなジンオウガ狂いの一人だ。  今日もいつもの仕事として、裏からアイテムを店頭まで品出しし、試食品の温泉タマゴを並べる。ハンターは一人1個、ここから温泉タマゴを取ることができるので、地元のハンターの間では好評だった。  「温泉タマゴと言えば、「彼」は好きでよく食べていたっけなあ」  そんな思い出を口にしつつ、慣れた手つきで大量のタマゴを並べていく。  「彼」というのは、以前までユクモ村周辺で活動していた、とあるハンターのことである。  私のジンオウガ好きを、唯一正面から受け止めてくれた相手。  しかし、彼がこの店に姿を見せることはもうない。  「はぁ、彼がいなくなっちゃってからつまらないなあ…」  ため息混じりに、彼女は恋しさ寂しさを吐露した。  ユクモ村には、酔狂なほどのジンオウガ好きで知られる、「変わりもの」の名物ハンターがいた。  話すことといえばジンオウガのことばかりである「彼」の存在は、彼と狩猟を友にするハンターたちのみならず、ユクモノ温泉をよく利用する一般客にも次第に知れ渡っていった。  彼も彼で村の子供達にジンオウガの格好良さを語り広め、そのたびに子供たちの眼を輝かさせていたのだが、そんな彼のジンオウガトークに毎回聞き入る女性が一人いた。  今回のお話の主人公である、「彼女」のことである。  彼女も彼に負けず劣らず、ジンオウガに惚れ込んだ人間の一人であり、次第に彼とジンオウガに関しての話をよくするようになった。  話せば話すほどお互いのジンオウガ像が積み重なり、いつしか二人は気の会う友人になっていた。  ただし、恋愛感情は抱いていなかった。なぜなら、ジンオウガとでもないと結婚しないだろうというほど、彼はジンオウガに入れ込んでいたからである。だから、彼女も最初から彼との恋愛は諦めていたし、考えもしなかった。  それからしばらくは、二人は会う度にジンオウガ談義に花を咲かせていた。それは、彼女にとって、ユクモ村で暮らす変わり映えのしない日々の中の一番の楽しみとなっていた。  しかし、彼はある日渓流のクエストに向かった後、行方不明となった。  その夜渓流は局所的な豪雨に見舞われ、後日調査に向かったハンターの報告によって、彼は豪雨によって亡くなったということが明らかにされた。  クエスト中に命を落とすハンターも残念ながら存在するが、彼はジンオウガ好きだけではなく腕の立つハンターとしても村民に有名だったため、彼の死は偲ばれた。  彼女にとってもそれは受け入れ難い事実であったが、もう彼は戻らないらしい。  彼女は今でもたまにこうして、彼がいた頃のことを昨日のように思い出す。  やはり数少ないジンオウガ好き仲間を失ったことは大きい。それだけ「彼」の存在は彼女にとって欠かせないものであったのだ。  アマツマガツチの一件からユクモ村も大分復興してきたのだが、アマツマガツチやジンオウガが村に残した爪痕は未だに癒え切ってはいない。  特に彼女の勤める雑貨屋は、ジンオウガの出現によって一時仕入れに悪影響が出たこともあり、店長共々ジンオウガを恨む空気が未だに漂っている。  なので、彼女は職場で趣味の話題、すなわちジンオウガがかっこいいだとか、美しいだとか、そのようなジンオウガに対する素直な賞賛は、口に出すのを躊躇うしかなかった。  今考えたら、「彼」は彼女にとってのガス抜きの場、「ジンオウガ欲」のはけ口となっていたのだ。  沈んだ気持ちのまま、彼女は目の前の仕事を黙々とこなすしかなかった。  2  夕刻。日中の仕事の疲れを癒すために、彼女は村の中心部にそびえ立つユクモ村集会浴場の湯に浸かっていた。  ここの温泉は効能抜群、ユクモ村専属ハンターの多くも御用達であるほどいい湯なのだが、そんな温泉に浸かっていても彼女の心を覆う雲はいまだ晴れないようだった。  「相変わらず貴女は浮かない顔をしておられるな。…まだ彼のことが頭から離れないのか」 そう彼女に声を掛けながら入ってきたのは、ユクモ村専属ハンターの一人である壮年のランス使い、ザントである。  なお、彼女は女性、ザントは男性だが、ここの浴場は混浴である。湯に浸かる者にはタオルの着用が義務付けられており、ザントも一帳羅である年季の入ったレウス装備も脱いで代わりに腰にタオルを巻いた姿となって入る。そこはご安心を。  「隣、失礼するぞ」「……いいですけど」彼女の隣に、鍛え上げられた肉体のランサーが肩まで浸かる。  「彼の狩友であった俺としても残念だが、「彼」はもういない人間だ。もっとも、そこまで想ってくれる女性がいて彼も幸せだろうけどな。」ザントは始め真剣に、後半は彼女を少し茶化すように言った。ザントの傍らに浮かぶ桶にはお猪口(ちょこ)と徳利(とっくり)が入っている。少し酔っているのだろう。  図星だ。  「べつに、「彼」のことなんかじゃないですから。それに、彼には恋愛感情も抱いてません……あれ、今入ってきたの、ザントさんのお知り合いですよね?」  彼女が気付いたとおり、傍から、ぺたぺたと騒がしい足音が駆けて来る。  「あれっ、おっさんじゃーん!」  「あっ、ツキマサの先輩のザントさん…ですかニャ?」  そうザントに声を掛けつつ、湯に入ってきたのはまだ幼さが残る少年ハンターのツキマサと、遠くの村から仕事に来ているハンター見習いのアイルー、カクである。  「ツキマサ、風呂は静かに入れ。それと、カクはツキマサと一緒にクエストだったのか?御苦労様だったな。」  「ありがとうございますニャ、ザントさん。…それとツキマサは、ザントさんの言うとおりお風呂でバチャバチャするのはやめるニャ!」  カクも指摘しているが、ツキマサはかなりの水しぶきを立てながら勢いよく温泉へと入った。入口の近くにいる番台のアイルーがツキマサに向かって抗議の視線を送るのもやむ無しだろう。  「どうも、すみませんでした…。…ああそうそう、おっさんがナンパしてるお姉さんって、「アイツ」とよく一緒に話してた人だよな?」  「まずお前にとっての「彼」は先輩だから、アイツ呼ばわりするのはやめろと何度も言っている。それと俺には妻と子供がいるからな!ナンパなど断じてしない」  茶化すツキマサに対して真面目に叱る…というよりキレるザントの様子はおかしかったが、またしても「彼」が話題に挙がったことによって、彼女の古い思い出がなおさら彼女の気分に暗い影を落とした。  「あーそうだそうだ。おっさんは結構子煩悩だったよな。それはそうとお姉さん、ジンオウガは好きだよな?」  「ええ…、そうですけど」  度重なるツキマサの失言に対し眉間に皺を寄せるザントを尻目に、彼女は不意に話を振ってきたツキマサの問い掛けに応えた。 「じゃあさ、こんな話があってなぁ……だいたい1年くらい前にここのハンターの間で「モンスターの装備を長く着続けるとモンスターに変身しちゃう」とかいうあほらしい噂が流れたんだけど…」  そんなツキマサの喋り出しを聞いて、アイルーには少し深い温泉に首まで浸かっているカクの耳が少しぴくりと動いた気がしたが、彼女は気にせずツキマサの話の続きを聞くことにした。  ツキマサが語った内容は、こうだった。  その噂を聞いた、ジンオウガになりたいと考えるほどジンオウガを愛していた、とある「変わりもの」のハンターは、早速ジンオウガの上質な素材を用いた防具を生産し、早速その装備を四六時中着続けた。それ以来、風呂にも入らず決してジンオウS装備を脱ごうとしなかったそのハンターだったが、ある夜、渓流のクエストに向かったまま、消息を断った。ベースキャンプには、彼の武器と、破け散ったジンオウS装備の残骸を残したまま……。  それと同時期に、渓流にある1頭のジンオウガが、姿を見せるようになった。  そのジンオウガは、渓流で狩猟を行う者のあいだからは「変わりもの」と称されていた。  人間にはめったに危害を加えず、ハンターたちが戦いを挑んできても軽くいなしてしまい、まるで狩猟にならなかったという。  また、とあるハンター見習いのアイルーからの目撃情報によると、水辺で水面に自分の姿を映してはみとれるような仕草をとっていたという。  そのジンオウガが目撃され始めた少し前、渓流のクエストにひとり赴いたとあるハンターが消息不明になるという事件が発生したというのは上述の通りだが、そのハンターを知る仲間の間ではこのように噂されていた。  あのジンオウガこそ、ジンオウガを愛していた「彼」自身なのかもしれない、と…  「…っと、最初に「ジンオウガ=彼」説を唱えたのは俺なんだけどなー、ま、ただの作り話だから真に受け」  「つまり、「彼」は死んでなくて、ジンオウガに変身したってことなのね?」  彼女は、その話を真剣に聞いていた。あくまで冗談だというオチをつけようとするツキマサを遮ってまで、その内容に対する驚きを口にしたのだった。  彼女の真剣な感嘆を聞いたカクの耳がぴくぴくと動き、そしていきなり叫び出した。  「…ニャニャニャ!!そそ、そんなの嘘に決まってるニャ!そのツキマサの先輩は既に亡くなってるんだニャって!だいたい人間がジンオウガになるニャんて、絶対ありえない話だニャ!!」  「ん。そうよね、嘘だよね。ありがと、なんか元気出た。」  話を聞き終わり、何か吹っ切れたように曇りの晴れた表情を浮かべた彼女はそのまま湯から上がり、そさくさと帰ってしまった。  「ニャ……行っちゃったニャー…」  「カクって、ほんと隠しごとヘタだよなー」  「…全く、そもそもの言い出しっぺはツキマサ、お前だろうが。少しは口を固くしろ。」  カクをおちょくるツキマサに向かって叱りつけつつも、酔いが回って頬の赤くなったザントは「彼女」が立ち去った跡を眺めていた。  それから数日間、彼女は集会浴場に姿を表さなかった。  3  今日の渓流は、 いつになく酷い空模様であった。  いつもなら爽やかな日の出を迎えているという時間なのに、今日の太陽は厚い雨雲に遮られ、空はどんよりと暗く、雨粒はひっきりなしに振り注いでいる。  土砂降りと言えるほどの豪雨に打たれているのは、ここ、渓流エリア4で「パトロール」を行っている、1頭の若いジンオウガの雄である。  勢い良く落ちて来る飛沫を弾く、美しい青緑の鱗を持つこのジンオウガが、実は元は人間だったと言ったところで、一体誰が信じるだろうか。  このジンオウガは、元々はユクモ村の中で「ジンオウガが好きすぎるハンター」として有名だった、ハンターの人間であった。そう、「彼」なのだ。  ジンオウガ好きをこじらせすぎて、とうとう「ジンオウガになりたい」と考えてしまうようになった彼は「モンスターの装備を長いこと着過ぎると、そのモンスターに変身してしまう」という噂を聞き付け、上等なジンオウガの素材を用いたジンオウS装備を生産、そのまま四六時中着続け、最終的にはジンオウガに変身してしまったのだった。  世間的には彼はあの夜、ジンオウガに変身した夜に渓流で起きた豪雨によって死んだことになっているが、それも彼が彼の正体を知る二人の狩友に頼んで流してもらったデマ、嘘である。  美しいが同時に危険な能力を持つジンオウガに変身してしまった今、下手に人間と接触すると人間達に危害を加えかねないと判断した彼が、自ら人間達を避けるためについた嘘なのだ。  あれから、1年ほど経っただろうか。いや、おれにはもうわからない。  ジンオウガとして長い時の中を過ごすことによって、彼の中からは人間の頃の時間感覚や暦の概念は失われつつあった。ジンオウガは、人間の暦を使うことなどないからである。  そういえば、彼がジンオウガに変身した夜にも、今日のような酷い雨が降っていた。  とはいっても、変身によってか体力を消耗していた彼は既に深い眠りについていたほど夜遅くに降ったので、彼は起床後に周りにできた水溜りによってしかそれを察することができなかったのだが。  今でも鮮明に思い出す、変身からの二日間の出来事。  決して忘れてはいけない出来事だ。  あの日の誓いを再び胸に刻みつつ、パトロールを続けるジンオウガだった。  ギルドの気象観測により、現在渓流にある豪雨を伴う雨雲がユクモ村にもやって来るであろうという予報が発表されてからというものの、ユクモ村の雑貨屋には災害時のための貯蓄として食料などを買い求める村人が詰め掛けていて大急しだった。  当然、ここの店員である彼女も、品出しに店番にとてんやわんやである。  「それにしても、渓流に行けないのは嫌だよなー。」  彼女の同僚の店員の一人が口にする。  「そうそう、ハチミツや木材も取りに行けないし、売上も落ちる」  「まあ、ギルドの警戒宣言だから逆らえないですよね」  もう一人の店員の相槌に、彼女も返事をする。  再び店員が愚痴をこぼす。  「そうそう、随分昔にもギルドの警戒宣言が出て売上げ落ちたんだよなー、たしかジンオウガが出たせいだった」  不意に登場した大好きなモンスターの名前に、思わず彼女はぴくりと反応する。  ジンオウガは悪くない。渓流に依存しない稼ぎ口を見つけなかったこの店にも落ち度がある。  しかし、そんな風に異を唱えることは、彼女にはできなかった。  店員達の愚痴はエスカレートしていく。  「あーあージンオウガ!そーだよあいつのせいで素材を取りに行き辛くなったんだ」  「ジンオウガが出ると雷が落ちるっていうし、ジンオウガがいない昔は良かった」  「そういやジンオウガといえば、1年前に死んだっていう、いつもジンオウガの話してるイカれた客がいたけど、あいつも大好きなジンオウガに食い殺されたんじゃねーの」  その言葉に、彼女は思わずカチンと来た。  事実無根なジンオウガに対する悪口を並びたてる同僚達に、憎悪が沸いてくる。  絶対に許さない。ジンオウガを貶ます奴は。私の好きなものを否定するな。  それに、「彼」は、ジンオウガに殺されたわけじゃ………  ふと、先日ツキマサから聞いた「噂」を思い出す。  「彼」は、ジンオウガに食べられたんじゃない。…ジンオウガになったんだ!  ならば、彼を捜しに行くしかない。  悪口で盛り上がっている同僚達や店頭に群がる客たちを尻目に、彼女は店を抜け出し、駆け出した。  「おい!どこに行くんだ!今急がしいんだからな!!」  同僚にそう呼び止められても振り返らず、フィールドへの出発口まで走る。  「渓流まで!」  彼女がそう告げると、フィールドへ向かうガーグァ荷車を率いるアイルーは顔をしかめた。  「でもお客さん、渓流には出られませんニャ。大雨だからニャ」  「いいから早くしてよ!」  「だからギルドから警戒宣言が」  「人を探したいの。もっとひどくなる前に急いで」  「…わかったニャ。」  彼女のあまりもの剣幕に負け、アイルーは仕方無くガーグァを走らせた。  村を離れ、荷車は雨雲の中に突入する。  勢いに任せて何も考えずにいきなり出て来たため、持ち物はなにもない。  それでも、「彼」を捜さなくてはいけない。  叩き付ける雨粒の中で、彼女は最後に会った彼の姿を追想する。  後姿までジンオウガによく似た、獣の頭部のような兜。ジンオウガの素材を使った装備に身を包んだ彼。  彼に、今の私の気持ちを聞いて欲しい。伝えなくては。  私には、あなたが必要だったんだ。  天気はどんどん酷くなっていく。パトロールを続けていた彼のジンオウガの耳は、遠くの方で落ちた雷の音をキャッチした。  あれは多分、おれの落とした雷ではない…と思う。  つまりは、モンスターの力によるものではない自然の雷が落ちるくらい、今日の渓流は悪天候に見舞われているということで、こんな中歩き回る旅の人間はいないだろうし、雨に強く ないモンスターも雨宿りしているはずだ。  もうパトロールをする意味も無い。  本当なら彼も風邪を引かないように雨宿りに向かっても良いのだが、  なにか、いる予感がする。  なにかと、出会う予感が……  その「予感」が、彼の休息を許さなかった。  ジンオウガは、闊歩を止めなかった。  4  渓流、エリア1。  やっとの思いで渓流に辿り着いた彼女は絶望した。眼下にはあまりもの悪天候が広がっていたからだ。  雨はざんざん、風はごうごう。視界は暗く、時たま一筋の稲光りが世界を鋭く照らす。  普段ならガーグァの憩いの場となっているはずのこの水場も、嵐と土砂のせいで茶色く濁ってしまっている。当然、ガーグァの姿はひとつもない。  布でできた簡素な服だけを身に纏った彼女は、ひっきりなしに打ち付ける横殴りの雨に耐えつつ、ただただ「彼」の姿を追い求めている。  最後に見た彼の姿は、全身が青くて黄色くて、鱗に包まれていて、爪が生えて、角が耳みたいに立ってて、狼によく似た顔で………  ちょっと待て。これではジンオウガの装備を着たハンターではなく、ジンオウガそのものではないか。  彼が仮に生きていたとして、この1年の間ずっとジンオウS装備のままでいるのだろうか?  白い毛の一本だけでもいい。この際、彼の痕跡だけでも見つけたい。  恋しい人。彼を感じたいのだ。  彼の、黄色い前足に抱かれて、白い帯電毛に包まれて…………  いや違う。またしても彼女の脳裏に現れる彼はジンオウガの姿になってしまっている。  混乱してるんだ。人間がモンスターに変身するなど、絶対にありえないのに。  それでも、彼女は「彼」を捜すため、力を込めて走り出した。蹴られた地面から飛び散る水しぶき。  あとどれくらいで手が届くの?  あとどれくらいで辿り着く?  あとどれくらいで、彼に遭える………?  一心不乱に、ひたすら走り続ける彼女。辿り着いたのは、渓流エリア5、ざわめく森。  嵐は強まり、雷もそう間を置かずに光り、音を轟かせ続ける。  しかし彼女は、そんな周囲の光景には目もくれずに「彼」を捜し続けていた。  彼の、青い鱗を、彼の、黄色い角を、彼の、鋭い爪を、彼の、流線型の尻尾を、彼の、大きな口を…  もはや彼女が追い掛けているのは、ジンオウS装備を身に纏った人間ではなく、四足歩行の牙竜種モンスター、雷狼竜ジンオウガそのものでしかなかった。  それほどにまで彼女は錯乱状態にあったからだろうか。濡れに濡れた彼女の頭上に一筋の蒼い雷が落ちようとしていることに、彼女は気付かなかった。  彼女の目の前の世界は白く塗り潰される。  「ああああああああっ!」  叫び声と共に光が消えた後、そこには痺れによって手足をぴくつかせて倒れている彼女の姿があった。  あんな雷に打たれたというのに、彼女の肌色の肌には傷ひとつなく、無事だった。  ……いや、無事ではなかった。おぼろげな視界から見える彼女の華奢な左腕は、熱くなり、痺れとは違う震えが止まらなくなったと思った次の瞬間、突如として太く大きく膨れ上がった。それだけではない。その女性の身体には不釣り合いなほど筋肉質になった腕は、やがて青く染まっていく。滑らかだった皮膚は硬くてごつごつとした鱗に覆われ、その先の手も黄色い鱗によって包まれ、手指は膨らみ、獣の前足と言っていい形状になり、それぞれの指の親指から中指にはまっすぐ、薬指と小指にあたる箇所からは横に向かって鋭く、黒光りする爪が生えてきた。  彼女は己の身に何が起こっているのか理解できないまま、まだ無事に人間の腕のままで、少しずつ痺れが取れつつある右腕を異形と化した左腕に伸ばした。普通はこういう時、人間は助けを求めるために叫び声を出すはずだが、喉の奥まで痺れている彼女にはそれができなかった。  しかし、青い左腕に触れようとした右手も変化が生じていく。爪は伸び、鋭利な黒爪になり、その根本の指も膨れ、指先から徐々に黄色の鱗が生えていく。肘からは白い毛のようなものも生えた。左腕に向かおうとしていた彼女の右腕がふいに痺れたように動かなくなったと思ったら、その刹那、腕は大きく膨らみ、強靱な筋肉と青い鱗に包まれ、服の袖を破いてしまう。  こうして変化してしまった部位は痺れが完全に取れ、自由に動かせるようになっているのだが、目に映る大きく膨れ上がってしまった両腕を前に、彼女は怯えてどうすることもできなかった。  不意に、痺れて動かない首筋のあたりに激痛が走ったような気がした。  次の変化は、彼女の背中側の首筋から始まった。首の両側面からは、髪の毛とは違う、白くてふさふさとした毛が柔らかに生え揃う。首自体も一回り、二回りと太くなっていき、首筋の中央の辺りには腕と同じ青い鱗が、それを挟むように両サイドに蓄電殻と呼ばれる、黄色くてとげとげとした甲殻も段を成すように生えてきた。首の前面は硬くて茶色がかった甲殻のようなものに覆われている。  そして、彼女の人間の顔も、変化を始める。  メキメキという骨格の変化による音と痛みを伴いながら、なにやら、鼻先や顎が伸びている感覚がする。犬科の動物のような、マズルが生じたのだ。 尖って黒ずみ始めた鼻先を見つめ、大きく見開いた眼は青くなり、鋭く黒い瞳孔も現れ、目つきは鋭く変形していく。その両目の周りから、徐々に顔全体に青い鱗が生え広がっていく。 顎の皮膚には黄色い鱗が覆い尽くし、顎の付け根と先端にはそれぞれ突起が生じているのがわかった。完全に青く染まった目の下から鼻にかけては、青白い稲妻のような一筋の模様が現れた。上顎と下顎、両方の内側に、鋭く白い牙も生え揃った。  耳は竜人属のそれのように尖り、耳の外側は青い鱗で覆われた。  その耳の後ろから、太くて尖った2対の黄色い角が生える。青い鱗の狼のようになった顔と併せて、この角はまるで狼の耳のような印象を与えた。  この顔は……、ジンオウガの顔だ。  『ォオ……オオォン………』  彼女はジンオウガの喉から、弱々しい吠え声を絞り出した。  その抗議の声も空しく、今度は胸の助骨の辺りから、ミシミシと骨格が変形する、嫌な音が奏でられる。彼女の胸部は急速に大きく、厚くなり、身に纏っていた衣服を軽く破いてしまう。皮膚は硬くなり、側面には青い鱗が生え、両肩からは黄色い蓄電殻が、首から背中に続いている帯電毛を首の蓄電殻と挟むようにでき上がり、とげとげとした印象を与える段を成す。  胸板は厚くなったが、乳房らしき膨らみは無くなり、代わりにふさふさとした白い胸毛が一房生えてきた。  大分意識がはっきりとしてきた彼女は怖くなって、ここから逃げようとしたが、下半身だけはまだ人間のもののままで、痺れが残っているせいで自由に動かすことはできず、逃走は叶わなかった。  そしてその下半身にも、変化が訪れる。  まるで獣の後脚のような形状に変化した脚は、腕と同じく青い鱗と白い帯電毛、足は黄色い鱗に包まれたところから黒い爪が生えた姿となったが、腕と比較すると大分小さい印象を受ける。もうすでに2足で立つことはできないだろう。  尻の辺りに、今まで感じたことの無い違和感というかむず痒い感覚が走る。  たまらず彼女が力むと、徐々に尻の上、腰の辺りが隆起し始め、胴体と同じくらいの幅の、大きくて平らな尻尾が生えてきた。その尻尾には、背中から続いている黄色い蓄電殻と白い帯電毛が縦に層を成していて、流線型のシルエットを形作っていた。  こうして、彼女の身体は、頭の天辺から、尻尾の先まですべてジンオウガのものへと変わってしまった。  雨に濡れた地面に横たわっているのは、一人の人間の女性ではなく、一頭の雌のジンオウガだった。  ぎくしゃくとした動きで四本の足を動かし、雌ジンオウガはなんとか倒れた身体を起こした。高くなった視点から地面を見ると、そこには先ほどまで身に付けていた衣服の破片と、雨粒がひっきりなしに落ちて波紋を作る水たまりがあったが、そこに彼女が自身の顔を写してみると、覗き返すのはジンオウガの頭部だった。  間違いない。彼女は、ジンオウガに変身していたのだ。  確かに、ジンオウガは好きで、憧れていた。  でも、そのジンオウガの姿に変身してしまうなんて。  雌ジンオウガは、呆然と立ち尽くしていた。  そして、その鋭く尖った目尻から、涙を流した。  もう、村に戻ることはできない。  この姿では、ユクモ村に近付くことすら叶わないだろう。  家は?仕事は?残された親族や同僚は?  その未練が、彼女に涙を流させたのだ。  『ォォ……アォオン………』  こうして嗚咽を漏らしても、耳に入って来るのは獣の唸り声でしかないということが、尚のこと彼女に変身の事実を突き付ける。  その時、涙でぼやけた彼女の視界に、なにかが入ってきた。  青くてがっしりとした腕に、黄色い角、しゅっとした狼のような顔の四足歩行の竜。  遠くに、別のジンオウガがやって来たのだ。  そのジンオウガは、しばしこちらに視線を向けたあと、すぐに身体の向きを変えて立ち去ろうとしている。  彼女は、その姿になにか心当たりがあった。  『アォン!』  「待って!」  彼女は、雌ジンオウガはそのジンオウガに向かって、馴れない四つの足を動かして駆け寄ろうとした。  が、  『ウォオン?!』  「うわっ?!」  四つの足が絡んだのか、それとも地面が濡れていたせいで滑ったのか、雌ジンオウガは勢いよく躓き、地面に身体を投げ出してしまった。  ズシャッ。  泥濘んだ地面に滑り込み、身体が泥まみれになってしまった雌ジンオウガ。  その巨体が横たわる大きな物音を聞いたもう1頭のジンオウガは振り返り、その場を去ろうとしていた足をこちらへと向けて、雌ジンオウガの元へ駆け寄って来た。  『グルゥ………』  「お前……、大丈夫か……?」  そのジンオウガは、唸るような低い声で雌ジンオウガに「語りかけて」きた。  同じジンオウガ同士だから、言葉も通じるのだろうか?  しかし、そのジンオウガ――見たところ雄のようだ――の発した「声」に、彼女は聞き覚えがあった。  『ウォ…アォオン…?』  「もしかして……あなたは…………?」  雌ジンオウガは、雄ジンオウガよりも少し高い吠え声で、「彼」に尋ねた。  5  おれも最初の頃は、走ろうとしてああいう風にこけたものだ。  事実、今は目の前に横たわっているこの雌ジンオウガの四肢の操り方は、普通のジンオウガならまずありえない、少しばかり不自然なものだった。  彼女は、普通のジンオウガでは無い。  彼の、長年ジンオウガを観察してきた経験から裏打ちされた結論だ。  それに、普段は、獲物のガーグァ以外のモンスターも含めた他者との接触を避けている彼だったが、派手に転んでしまった他のジンオウガを見過ごせるほど、彼は非情では無かった。  だから、彼は雌ジンオウガに手を差し伸べた。  そして、彼はその雌ジンオウガから問い掛けられた時、「彼女」の正体も察したのだった。  『ガルゥ……オッアン!!』  ああ、如何にも、1年前までユクモ村専属のハンターだった、ジンオウガ狂いの一人だ。……おまえと同じ、な。    その雄ジンオウガから発せられる語り口調や、仕草の全体的な雰囲気といったものは、彼女にとっては実に1年振りとなる感覚だった。  彼だ。彼が目の前にいる。彼はジンオウガとなって生きていたのだ!  ようやく、遭えた。  彼の手を借りて起き上がった彼女は、雌ジンオウガは彼に会えたことが嬉かったのか、それとも全裸の状態で彼の目の前にいることが恥ずかしかったのか顔を赤くし、そして再び涙を流した。  彼の大きな胸板に顔を埋める。胸の帯電毛に包まれて涙を流す。彼もやはりジンオウガそのものになっていた。それも、ジンオウガの姿のほうが、以前の彼の人間の姿よりもしっくりくるというか、生き生きとしているようにも見える。  そんな彼女を見て、彼は、涙が止まらない彼女の肩にそっと手を回した。優しく、包みこむように。  『それで、どうしてもあなたに聞いて欲しい事があったんです』  ふいに顔を上げた彼女は、ジンオウガの言葉で彼に向かって話し始めた。  彼がいなくなってからジンオウガの話をする相手がいなくてつまらなかったこと、職場の同僚はジンオウガのことを恨んでいて、今日は「彼はジンオウガに殺されたからいなくなったんだ」とありもしないことを言い放ったということ、その同僚に頭に来て彼を捜しにここまで来たら雷に打たれ、ジンオウガに変身していたということを、順を追って彼に伝えた。  彼は、彼女の職場の同僚の言い草に、気を悪くしたようだった。  『そうか……、それは残念だったな。おれとしても許せない。』  彼は、ギルドの人間とジンオウガである自分が敵対しないように、これまでずっと動いてきたつもりだった。それなのに、心無い人間はいるものだ。その同僚の言葉からギルドの矛先がジンオウガに向けられずに、大事にならないことを祈るしかない。  『オォン…、その言葉を聞けて良かったです。私、どうかしちゃいそうで…』  『どうかしてるのは、お前もおれも同じだろう…?ジンオウガが好きなのは、変えようが無いさ』  雄ジンオウガは、喉をならす雌ジンオウガに、優しく、しかし力強く語り掛けた。  その言葉を聞いた雌ジンオウガは、どこか晴れやかな表情を獣の顔に浮かべていた。  「…まあ、今日は疲れただろう。おれの寝床に案内してやる」  「それって、これから私達は一緒に暮らすってことですか?」  「はは、それはどうかな……」  雄ジンオウガは意地悪にはぐらかしつつ、雌ジンオウガを自らの住処へと招いたのだった。  雨はまだ止まないが、彼女の胸の内は幸せな光で満ち溢れていた。  6  ユクモ村から、またしても行方不明者が出た。  1年前の村の専属ハンターに続き、今度は雑貨屋の店員の女性が、店の同僚との口論の末、ガーグァ荷車で大雨の渓流へと向かった後、消息がわからなくなったという。  当然、ギルドは捜索に乗り出した。  ガーグァ荷車を引いていたアイルーによると、彼女があまりにも凄まじい剣幕で迫ってきたため、仕方無く荷車を出したそうだが、今回の事件に関して責任を感じた荷車アイルーは、自ずから職を降りることにした。  あれから数日、捜索はまだ続いている。未だに彼女は痕跡すら見つかる気配がない。  ある日、職と信用を失い失意の底にある元荷車アイルーのもとを、ベルナ村の龍歴院所属でユクモ村にも出入りしているニャンター、カクが訪ねて来た。  オレはツキマサみたいに無責任に言い振らしたくないけれど、これだけはこのアイルーに伝えたい。気負った同胞を見過ごすことは、アイルーにはできないのニャ。  そう思ったカクによる報告だった。  「彼女、なかなか見つからないらしいんだけど、オレはもしかしたら彼女をこの目で見たのかもしれないのニャ。」  ユクモ村ハンターズギルドからは、多くのハンターたちが彼女の捜索のために駆り出された。カクは彼女とは顔見知り程度であるが知り合いだったため、彼女のことを心配していて、捜索に加わりたかったのだが、所属がユクモ村ではないカクには捜索の命が下らなかった。それでも諦め切れなかったカクは、個人的に龍歴院から渓流の採取ツアーを受注し、1匹で渓流へと向かったのだった。  それに、カクには前々から渓流に行きたかった用事があった。  奇妙な話だが、カクには仲の良いジンオウガがいた。  そのジンオウガは、人間を決して襲わないことでハンターの間では少しだけ有名で、カクはひょんなことからそのジンオウガと親交を築き、ときたまそのジンオウガのもとにこっそりと遊びに行くような仲になっていたのだ。  最近は、ジンオウガとあまり会っていなかった。  彼にも彼なりの事情があるのだろう。ただ、そろそろ彼の鱗も汚れてきている頃間だろうか。奇麗でかっこいいジンオウガが好きな彼の身体のうち、自分では奇麗にできないであろうところの手入れをするのは、カクの役目であった。  「あっ、今日はいたニャ」  ニャンターの敏感な感覚が、彼と思しきジンオウガの気配を捉える。ただ、おかしなことに、彼のとなりにはもう1頭のモンスターの気配があった。  カクが地面に潜って彼の様子を見てみると、彼の隣にはもう1頭の、番らしき雌のジンオウガがいた。  「これは……、お取り込み中らしいですニャ。」  2頭はお互いにとても幸せそうで、お互いの身体の特徴的な部分を触りあって、じゃれあい遊んでいるようだった。  カクの野生の勘が反応した気がした。彼とこんなに趣味の合う雌…いや女性は、「彼女」くらいしかいないだろう、と自然に思えたのだった。  「彼」の前例もあることだし、そうとしか考えつかなかった。  「…ということで、彼女は姿を変えて、生きているのニャ。キミのせいで死んだわけじゃないのニャ」  「…絶対ありえないとおもいますニャ、人間がモンスターに変身するだニャんて」  荷車アイルーに安心して欲しい一心で秘密を打ち明けたカクだったが、荷車アイルーの反応は案外薄かった。まあ、常識ではありえない話なので、仕方無いだろう。  「だからこそ、このことは絶対に他人に言いふらしたりしちゃダメなのニャ!!」  念のため予防線を張っておくカク。  「それと、仕事がなくて困ってるなら、ベルナ村に来るといいニャ。ユクモ村に負けないくらい観光地化が進んでる村だから、お仕事もいっぱいあると思うニャ」  続くカクからの提案を聞いた荷車アイルーの顔は、ぱあっと明るくなった。  ニャんだ、最初からこれでいいんじゃん。彼らの秘密を話したのは無駄だったのかニャ、と少しばかり落胆しつつ、カクは荷車アイルーを連れて飛行船乗り場へと向かった。  いつか、彼に「おめでとう」を言いに行きたいニャ。  ベルナ村行きの飛行船に乗ったカクは、小さくなる渓流の山々を眺めてそう心に思ったのだった。  7  数ヵ月後、渓流、エリア9。  今日もここで、ジンオウガの1日は始まる。  以前までなら朝起きたらまず水辺に行って自分のかっこよくてかわいいジンオウガの姿を眺めていたのだが、今朝の彼は違うものを眺めている。  その視線の先にいるのは、彼とよく似た青い鱗に黄色い手足、白くてふわふわとした帯電毛が目立つ子犬のような姿のジンオウガの幼体、それも1匹ではなく3匹もいる、彼の子供たちだった。  子ジンオウガたちの傍らにいるのは、今も変わらず彼と良い仲でいる雌ジンオウガ、そう、彼女であった。  あの日以来、彼にジンオウガとして沿い遂げる覚悟を決めた、彼女である。  彼も彼女も、じゃれあうかわいい子供達を見て、笑みを浮かべている。  お互いに、こんな日が来るなんて思っていなかった。ジンオウガと番って、ジンオウガの子供を設ける日が来るとは。それは、ジンオウガという種族を愛する彼らにとって、なによりも幸せなことであった。  番の彼女に続いて子供達と守るべきものが増えた彼。  彼は、これからも人知れず、末長くこの渓流で生を営んでいくだろう。  めでたし、めでたし。 雷狼竜の、予感        完